私たち人間以外の生き物はすべて土に還るのに、人間だけがなぜそうでないのか。
ものごころついたころから素朴な疑問でした。
アメリカで堆肥葬がはじまります。特殊なカプセルに遺体とウッドチップ。そしてバクテリアにより遺体を堆肥化するのですが、このカプセル内では遺体の分解途中で発する二酸化炭素や窒素や水などをコントロールできるそうです。およそひと月半で堆肥になるとのこと。
一見、よいことのように思う人も多いでしょう。火葬にともなうCO2排出の問題やアメリカでは一般的なエバーミング(遺体の腐敗や感染を防ぐための防腐処理)による土壌汚染、また樹木葬や海洋散骨など自然葬に注目がいく今の時代にフィットしそうです。
でも私は違和感がぬぐえません。何か違うと感じた理由は、土に触れずに分解されることに疑問を感じてしまいます。
死が近づくと、周りに何かを発します。 自分自身も健やかな精神であれば死にどきがいつか察すると思うのです。小さな微生物も植物の根につく菌糸も森全体の命のやりとりを感じとり、生死の循環に必要な働きをしています。
よく人間の身体を土になぞらえて考えられることがあります。
私は幼いころからアレルギー体質の上、ひどい食生活がたたり、とうとう20歳のころ身体を壊してしまいました。徹底的に体質改善を迫られたとき、あるひとから腸が脳をコントロールし、生命の源は腸がつかさどっている。なかでも小腸には免疫細胞が7割も存在し、体内に入ってきた栄養素を賢く見極め選択的吸収をしている、と教わりました。しかも血液も作っていると。
生き物はシンプルな管からはじまったと言われています。
生命維持に必要なものを入れて、不要なものは排出する。
種が変われば、ある生き物に不要なものでも必要とする生き物がいるはず。
捨てる神あれば拾う神ありの世界。
人の遺体はある程度の大きさとなるため、ペットを土葬するのとはわけがちがいます。
土葬地は衛生上感染症などの心配されることから新たに設置できにくくなっています。
というよりほぼ無理で、現存する土葬地を維持することも難しくなってきています。また、土の環境が整い、大地の水と空気の流れがスムーズになれば、本来の自然界の適切なスピードで分解がすすみ感染症などの心配はなくなるでしょう。
亡くなった後、腐敗する前に速やかに次の命の糧となるような埋葬のあり方が現代はほとんどなくなってしまいました。
もし循環葬(土葬、風葬)を復活させるとなると、死のもつイメージがネガティブで暗いだけではないことを見つめ直す必要があると思います。暮らしから『死』があまりに非日常すぎて切り離されていることにある意味さみしさを抱いてしまいます。
小さな生き物の世話をし、一緒に暮らす。
食卓にのぼる食材は他の命のかたまりであることを教える、知ろうとする。
私たちの体内には無数の常在菌が棲み、協力してひとつの身体を保っている。
など、日頃から命の尊さを意識したい。
小腸はシンプルかつ複雑な仕組みをこなしています。おそらくどんな生き物にも共通の仕組みがあり、いのちをつないでいるはずです。
選択して、スルーして、時々エラーがあるかもしれないけど、他の生き物と支え合いながら命全体、ひいては地球全体のバランスを保ちながら進化してきたのではないでしょうか?
私たちの遺体を、私たちの未熟な脳で結論づけた方法で突き進んで良いのでしょうか。
命の尊さ、儚さを見ず、命のスピードを無視したシステマティックな堆肥化にみえてしまいました。
死は次の生を生むエネルギーをもっていることに気がつくと、自ずとなにをすべきか見えてくると思います。
私は優しい死生観を育むために木を植えたいと思います。
木を大切にできる社会にしてゆきたいです。
なぜそうなのか?は今後の活動とともにお伝えできればと思います。
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